――その辺りにはあんまりこだわりがないってことなんですか?
藤子Ⓐ:僕の場合はキャラもだんだん変化して成長していくから、ある程度、僕の手を離れて自分で生きてくるというか。そうすると自分は意識してないのにだんだん顔が変わったり、キャラも変わってきたり、自然にいく。僕はもともとノートを取って、こういうタッチでこういうのを描こうっていうことを初期はしてたんだけど、『フータくん』を『少年キング』に連載してたときにあまりにも原稿が遅れちゃって。あの頃はネームっていうのを必ず先に渡して、原稿が上がると編集がそこにセリフを貼り付ける作業があったから、必ず事前にコマ割りしてセリフだけは編集に書いて渡してたんだけど、『フータくん』のときに間に合わなくなっちゃった。『フータくん』は毎回いろんな仕事をして貯金して、100万円貯めるっていうんで最後に毎月の金額を出す作品で。
▲「フータくん」(藤子不二雄Ⓐデジタルセレクション1巻表紙)
――もちろん存じ上げてます!
藤子Ⓐ:その頃、郵便箱に手紙と一緒に千円札が入ってるっていう不思議な事件があった。犯人はわからないんだけど。これをネタにしようと思って、フータくんがその犯人を突き止める話にしようと思ってたんで、初めて1コマ目から描いていった。
▲転機となった「お札の速達大かんげい」(藤子不二雄Ⓐデジタルセレクション2巻に収録)
――つまり、ネームも描かず完全アドリブで。
藤子Ⓐ:先はなんにも考えてない、もう間に合わないから(笑)。自分でも先が読めない、だから読者にも読めるわけがない。その千円札を郵便箱に入れる犯人についても何も考えてないし、その事件は千円札が入ってたっていうだけで、その前後の話は新聞にも何も出てこないわけ。あれは12ページかなんかの読み切りのギャグだから。
――その短さできれいにまとめなきゃいけない。
藤子Ⓐ:まとめなきゃいけない。最後の前のコマで、ふつうの家の郵便箱に郵便配達が手紙を入れてる背中が見えて、去って行く。フータくんはピューッと走って行ってその郵便箱に手を入れたら千円札が入ってた。「犯人はおまえだ、こっち向け!」って言って、最後のコマでその郵便配達が振り向いたら千円札の伊藤博文の顔をしてたっていう、なんの意味もないオチなんだけど、なんかおもしろいじゃない?
▲真犯人は、かつての千円札に描かれていた伊藤博文だった!!
――おもしろいし、いまでも覚えてるぐらいのインパクトでした。
藤子Ⓐ:これはおもしろいなと思って、それからは一切ノートを取らなくなった。それから何十年、1回も下描きしたことない(あっさりと)。
――描いてるほうとしてはそっちのほうが楽しいんですか?
藤子Ⓐ:楽しいしラク。ノートを取ると予定調和みたいになっちゃう、僕の場合は。ほかの人は違いますけど。
――本来はちゃんとキッチリと構成を考えてやるべきものなんだろうけど。
藤子Ⓐ:ノートを取ってから描くと二度描きみたいになってしまう。
――それで刺激がなくなって。
藤子Ⓐ:刺激がなくなって、自分でもオチがわかってるから力が入らない。心配しながら、「これ、まとまらなかったらどうなるんだ?」ってドキドキしながら描くと、そこに切羽詰まったときのアイデアが出てきて、自分でも想像できないような展開になる、それがおもしろい。真剣勝負みたいになるから。
――……これは漫画家としては邪道なんですか?
藤子Ⓐ:まぁ、そうですね。特に今は編集が求めるじゃない、アイデアを見せてほしいとか。僕の時代は見せないでも通った。僕らは富山から東京に出てきて、手塚先生が大人気になったとき、手塚先生みたいな漫画を描く人間が誰もいなかったの。そこで僕らは先生の真似みたいな絵で描いてるから注文が各社から殺到した。そうすると新人だしうれしいじゃない、東京に心配しながら出てきて、注文がいっぱい来たから引き受ける。引き受けているうちにどんどんオーバーワークになってきた。
――そして帰省中の年明けに、あの事件が起きるんですね……。
藤子Ⓐ:事件が起こったわけです。一番大きかったのが『なかよし』の別冊付録、64ページ。タイトルがまたジャン・バルジャンの『ああ無情』。
▲あの事件は、「まんが道」藤子不二雄Ⓐデジタルセレクション21巻に収録されている
――ヴィクトル・ユーゴー原作の。
藤子Ⓐ:そう、講談社から初めて別冊を頼まれた、これが一番のメインだった。ところが、これが表紙を正月6日に送って、幼年誌の扱いだから発売が早いんですよ。10日に原稿を入れなきゃいけない。ところが7日になっても表紙もできてないの。
▲編集者からの電報に追いつめられる満賀道雄。そして…
で、講談社から帰省先の高岡に電報が毎日来るわけ、「送れ送れ」って。とりあえず表紙を描いて時間を稼ごうと思って、7日に表紙を描いて郵便局に行こうと思ったら電報が来て、「原稿送るに及ばず」ってキャンセルされたの。
▲「まんが道」屈指の名シーン
それから頼まれた10本のうち描いたのは2本で8本を落としたから……。
――その結果、しばらく干されることになって。
藤子Ⓐ:それから何年か経って、昭和34年になって。僕ら当時あんまり仕事をしてなかった小学館から『少年サンデー』の初代編集長が来て、「ウチで週刊誌を出すので連載を描いてくれ」って言われた。ところが僕らはやっとカムバックして5~6本連載を持ってたので、さらに週刊誌が1回8ページ増えて、もしまた落としたら絶対アウトだからどうしようって悩んだ。でも、日本で初めての週刊少年誌の創刊号から漫画が載るっていうのは名誉だし、なんとか頑張って引き受けようと言って、電話かけて「やります!」って言った。あの頃の小学館の編集は学校の先生から編集になった人も多かったんです。
――あ、そうだったんですか!
藤子Ⓐ:だから小学館には専門の編集者ってほとんどいない。漫画は当時、学年誌ぐらいしかやってなかった。だから何を描いても「おもしろいおもしろい!」って言ってくれて。これはうれしいじゃない?
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