コロコロコミックは、2019年11月15日発売号で創刊500号を達成!! それを記念して、現10代目編集長までのリレーインタビューで約40年にわたるコロコロの歴史を振り返るぞ!
第5回は、ミニ四駆・ポケモン・ハイパーヨーヨーの3大ブームによって、200万部発行という超ミラクルな数字を残した5代目編集長の三浦卓嗣さんだ!! 各コンテンツの当時の裏話はもちろん、「今いる場所を、超えていきましょう」と話す三浦さんの編集者精神が垣間見えるエピソードもあるぞ!!!! 「コロコロ500号記念大年表」とあわせて、大いに楽しんでほしい!!!!
三浦卓嗣(みうら・たかし)
1958年、栃木県生まれ。『小学一年生』『小学三年生』『小学六年生』編集部を経て、94年にコロコロコミック編集部へ異動するとともに、99年まで5代目編集長を務めた。「紙媒体へのこだわりを捨てきれず」と、現在は自費出版・カスタム出版などを行う小学館スクウェアに勤務している。
「漫画誌がここまでやって大丈夫か?」
——学年誌を経てコロコロ編集長に就任。異動の際、どのような声を掛けられましたか?
そんなに丁寧な異動通達があったわけではありません。事前の打診などはなかったような気がします。「三浦くん、異動決まったから」「はあ、今度は何年生ですかね」「学年誌じゃなくて、コロコロ。あ、編集長だから。まあ、頑張ってね」……これほどいい加減ではなかったかもしれませんが、一切記憶に残っていないことからすると特に熱い期待や励ましはなかったのでしょう。
——率直な印象はいかがでした?
まさに青天の霹靂でした。『小学一年生』で編集者人生をスタートし、『小学三年生』『小学六年生』と進級をして、当時「六年生」の副編集長をしていました。まだ36歳でしたから編集長職など先の話だと思っていましたし、ましてやコロコロコミックは隣の畑以上のものではありませんでした。
とはいえ自分も若かったし、今よりはるかに能天気で楽天家でしたから…。あまり深く考えたり悩んだりした記憶はありません。まあ、学年誌にも漫画やエンターテインメント情報のページは当然にあって、歴十年以上のベテランではあったし、何とかなるかな、と。
——学年誌では、どんな担当を?
小一では『ドラえもん』の漫画で藤子・F・不二雄先生の担当をしていて、自分が考えた秘密道具が採用されたことも何度かありました。採用されると漫画の中の電柱広告に先生がさりげなく名前を入れてくれたりするんですよね、「三浦屋」とか。あれは嬉しかったな。
『スーパーマリオブラザーズ』のゲーム最短攻略マップ作成のため、徹夜でトレスコープに籠って35ミリゲーム画面ポジを一枚一枚繋いだこともあります。ゾイド本のストーリーを一冊丸々執筆したり、『MOTHER2』のマンガ単行本を作ったりもしていました。
今にして思えば、そのあたりを会社が見ていてくれたような気もします。何より世紀のトンガリ雑誌であった『小学六年生』で編集経験を積み、副編として編集長不在の一時期をどうにかこうにか纏めていたのを評価してくれた異動なのだと理解しています。
まあ、会社の人事異動には本人が思いもよらない内輪の事情がいろいろありますから。驚きの人事の真相は、今も謎ですね。
——異動前、コロコロにはどんなイメージがありましたか?
就任前のコロコロのイメージは、正直あまりグッドなものではありませんでした。
学年誌でホビー企画にタッチしていたころ、時々頭を下げてコロコロでないと手に入らない情報や写真などを借り受けに行っていました。当時は、この「コロコロでないと手に入らない」というところがまさしくコロコロの真骨頂であることが分かっていなかったので、何となく出し惜しみされているようで不愉快でした。
また、誌面を開けば踊っている「勇気」「友情」「闘志」の標語。このステレオタイプは漫画雑誌のスローガンとしては理解できるけれど、なんともコンサバな暑苦しさを感じていました。
——学年誌の風土とは違っていたのですね?
先ほども言いましたが、在籍していた『小学六年生』という雑誌は空前絶後のトンガリ雑誌で、子どもを子ども扱いしない、いわば針が振れきったような雑誌でした。世紀末の政治状況を真正面から取り上げて、ソ連大統領ゴルバチョフ氏に質問状を送りつけ、驚いたことにこれに対して大統領から大使館経由で返事があったものだから、さらにこれを記事にしました。
小学生の性の問題にふれ、男女両性向けの雑誌上で「ときめきのファーストブラ」なる企画を掲載するなど、意欲的な企画が多かった。常識やタブーを軽々と超えていく「雑誌で扱えないことなどない」という自由さを持っていました。当時の編集長の卓見、雑誌人としての意識の高さには今も頭が下がります。
——異動してコロコロのイメージに変化はありましたか?
こんな雑誌経験をしてきた自分には、コロコロは重苦しく見えていました。でも、『小学六年生』の斬新な試みは、残念ながら部数には繋がらなかった。このことも経験として心に刻んでいました。もちろん、雑誌の使命は部数獲得だけではありません。とはいえ、コロコロに行くとなれば、当然部数を要求されることは能天気な私にも分かっていました。
異動後、コロコロ的な情報コントロールの意味が分かってきました。ジカベタ標語も読者に寄り添う姿勢の表現だったのですね。そんな中で雑誌の枠にとらわれずに雑誌の勢いを伸ばし、増えたコロコロイズム賛同者を読者として再び回収する、そんな方向性を模索することになります。
——編集長になるにあたって、どのような方針を掲げましたか?
自分にとっては青天の霹靂的な異動でしたから、正直編集方針もなにもあったものではありません。走りながら考えるしかありませんでした。
そもそも編集部内に、編集長の方針などをありがたがる風潮は一切なかったですね。
他の漫画雑誌編集部と違って、漫画家担当がそれぞれ割り振られていると同時に、メーカー担当がきっちり分担されて編集部内でしのぎを削っていました。編集会議はページの陣取り合戦的な様相を呈していました。
そんな環境で鍛えられていたのでしょう。プロデューサー的な能力に長けた編集者が多く在籍していました。企画が少なくて困るという思いをしたことはほぼありません。むしろ様々な企てがともすれば雑誌の枠組から溢れて、漫画誌がここまでやって大丈夫かと思うことが多々ありました。
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