100万部を達成した2代目編集長時代
——その後、2代目編集長である福島征英さんの時代に、100万部を達成していますね(※1987年第108号で102万部発行!)。コロコロはどのようにして小学生に支持されるようになっていったのでしょうか。
大きなエポックがいくつかあります。まず、創刊から2年後の79年、『ドラえもん』がテレビアニメ化するのにともなって、コロコロコミックが月刊化しました。翌年、『ドラえもん』は映画化されるのですが、その原作漫画を『大長編ドラえもん』として、コロコロで独占連載することになったのです。コロコロ本誌で映画の原作を連載し、それを基に映画を公開、大長編をてんとう虫コミック化して、再び次の「大長編」の原作連載が始まる。今も続くそのサイクルは、千葉さんの編集長時代に出来たものです。
『怪物くん』『忍者ハットリくん』といった漫画もあり、初期の『コロコロコミック』は“藤子不二雄マガジン”といっても過言ではありませんでした。それこそが、子どもたちが待っていた漫画誌だったんですね。
次に、82年の『コロコロまんがまつり』です。これは東京・銀座の松坂屋で開いたもので、雑誌をイベントとして立体化しようと。この年には、すがやみつる先生の『ゲームセンターあらし』もアニメ化していて大人気でした。
——イベントの開催は、その頃から行っていたんですね!
85年にはハドソン(※現在はコナミに統合)という当時のゲームメーカーとの共催で「TDK全国キャラバンファミコン大会」を開催しています。ファミコンブームにおける子どもたちのスターだった高橋名人(=当時ハドソン社員だった高橋利幸さん。今のコロコロで言うと「ゾイドワイルド」のパーフェクトヒューマン片山さん、「ベイブレード」のマスターブレーダー堀川さんら、社員スターの元祖的存在だ!)のイベント出演はもちろん、コロコロ本誌でも名人による攻略情報などを載せていました。反響は大きかったですよ。
——85年は、編集長が千葉さんから2代目の福島さんに代わった年でもありますね。
福島編集長は、もともとコロコロの隣にあった『てれびくん』の編集部にいて、交流がありました。のちに『ぴょんぴょん』というコロコロの少女漫画版をつくるという使命があったので、コロコロ編集部にいたのは2年間。
彼は角刈りでレイバンのサングラスを掛けて、トレンチコートを羽織るという、いかつい風貌でね。でも、勉強熱心な人で、電車ですっとカバンから取り出しては、『りぼん』を読んでいた(笑)。
ある時、かつての小学館ビルの地下にあったスタジオで、グラフ記事(=写真が乗っている記事のことだよ!)用に『シルバー仮面』の撮影をしていたところ、手違いで着ぐるみのスーツだけ届いて、スーツアクターの人が来なかったことがありました。すると、「しょうがないなぁ」と言って、誰にやらせるでもなく、記事の担当である福島さんが自らシルバー仮面の中に入ったんです。それで、いろいろなキメ技のポーズをとるんだけど、これが結構キマってるんだ(笑)。見た目はごついんだけど、気が優しく、仕事熱心な人なんです。